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四川省の思い出
四川省攀枝花市(パンヂーファ)Panzhihuaの思い出
四川省攀枝花市(パンヂーファ)Panzhihuaと言う街に行くから大連に来いと楊さんから電話があったのが2008年だった。
その場所の事は下記にウキペディアからの参照を見て頂ければ大体の想像はつくと思う。
電話をかけて来て「モチヅキさん、パンヅーファンに行くよ」と何度も言う。それは何処かと訪ねたら「中国全土の地図を想像すると、鳥が大きく羽ばたいている姿になる。丁度四国の様な格好の左上」だと言う。四川省を言わないで「パンヅーファンに行こう」とだけ言うので余計に判らなかった。
黙って大連空港に来たら良いよ、とだけ言われて行って見て驚いた。
大連市から空路で1200km南下した場所だった。大連から一旦重慶に飛び、その後攀枝花市(パンヂーファ)の空港に行ったのだが、飛行機の窓から見える大地が、海の波の様にうねっていて、これが大陸プレートで、大きく言えば太平洋にアジア大陸が飲み込まれていると言うのはこの様子かと思わせるものだった。
四川省攀枝花市の空港の正式名称は「攀枝花保安営空港」で、驚いた事に標高が1200mの高地だった。
そんなの知らなかったと言ったら、豪快に笑い飛ばされて「ここは中国」と言う。「……..」判らん。
その四川省攀枝花市には一週間滞在し、そこから成都と昆明に滞在し思い出がとても深い。
その時の話しは後日、記したい。
四川省攀枝花市の事は以下に記しました。
四川省の南に位置し、涼山イ族自治州、雲南省楚雄イ族自治州と接する。
この一帯は深い山の中である。市域の西には青蔵高原の東端に位置する横断山脈、東には大涼山山脈、北には大雪山脈といった高山が南北に走り、南は金沙江が通る。地形は西北が高く、東南が低い。
攀枝花市の東部には小相嶺-螺髻山-魯南山と続く山系、中部には氂牛山-龍肘山と続く山系、西部には錦屏山-柏林山と続く山系があり、いずれも南北方向で、間には大河が流れる。市域内の最高地点は西北部の塩辺県にある百霊山の穿洞子で、海抜は4,195.5mに達する。最低地点である仁和区平地鎮も海抜は937mと高い。市の中心部や工業地帯の海抜は1,000mから1,200mの間に広がり、農地は1,000mから1,800mにかけて広がる。
市内で金沙江と雅礱江が合流する。市域内は金沙江、雅礱江、安寧河、大河、三源河などの大河とその支流が深い峡谷を流れ、雄大な景観をなす。
歴史
攀枝花は1960年代の三線建設時代に毛沢東の大号令によって建設された人工的な都市である。
1934年から、攀枝花の鉄鋼の父と称される地質学者・常隆慶が金沙江一帯の山間部で地質調査を開始した。1939年に彼は宝鼎炭鉱と攀枝花磁鉄鉱山を連続して発見し、攀枝花の石炭と鉄鉱石を使った工場建設などの開発を提案した。
1954年、地質学者・徐克勤は南京大学の教授や学生を率いて四川省の地質調査と資源探査実習を行い、攀枝花鉱山の経済価値の高さを再確認した。1965年には攀枝花鉄鉱の開発が開始され、都市建設も始まった。当初は攀枝花特区と呼ばれ、後に渡口市と改められたが、1987年に攀枝花市に改称した。
四川省を流れる金沙江の最大の支流であるヤーロン川の下流に、全国で二番目に大きな二灘水力発電所が建設された。
ジャスミン茶の香り 終
思い出は尽きない、、
2009年3月15日 楊さんは中国吉林省長春市から遼寧省瀋陽への帰路、運転手の運転ミスによる事故で車が横転し、1人車外に投げ出され内臓破裂で即死した。享年55歳。短くも太い人生だった。
父親は楊建民氏で元遼寧省大連市の副市長、80歳を過ぎた今でも絶大な影響力を配下に持っている。1979年に北九州市と友好姉妹都市を締結し、経済界にも発言権をもっている。
楊さんは1992年4月に2年間滞在した日本を離れ帰国した。帰国後は日本の水産会社の中国駐在員なにり、その後日本のゼネコンの中国駐在員に転身した。その時の経験を活かし、2001年に大連名水温泉公司と言う会社を立ち上げた。
帰国後は父上の楊健民氏の力を一切利用せず、独立自興の精神で踏ん張り、やがて巨星へと成長して行った。
大連名水温泉公司は温泉開発を基礎に地域開発のデベロッパーをし、中国全土で事業を展開するまでに成長していた。
南は雲南省、四川省であり、西は内モンゴルであったり、北は黒竜江省と凄い勢いで中国全土を駆け巡っていた。渤海湾沿いの山東省、遼寧省には現在有名な温泉が幾つもある。2001年以降開発された温泉は全て楊さんの仕事だ。
私は四川省も雲南省へも同行し、彼の代わりに州政府の役人相手に挨拶なんかもさせられた。「いいか、望月さんは日本の金持ちと言ってあるから、だから、笑って握手をしてくれたらいいよ」と何時もの調子で楽しませてくれた。
楊さんが独立して間もない頃、お願いがあると言ってきた。何と聞くと「日本のファクシミリ器」が欲しいと言う。どうしても私に買ってくれと言う。ではと来日の折にベスト電器に買いに行ったら直ぐさま、この機械と見つけて来た。
私が代金を支払うと嬉しそうに礼を言ってくれ、とても大事そうに抱えて持って帰った。
その話しを私は忘れていた。2008年の来日時に彼の連れて来た中国のお客さんと私と数名で会食していた時、突然楊さんが大粒の涙を流し、泣き出した。どうしたのかと話しを良く聞くと、自分が一番苦労している時に望月さんにお願い事をしたら、何も言わずにファックスの機械を買ってくれた。
望月さんも苦労している時期なのにと、何時も思い出しては胸を熱くしている。今日はどうしてもこの話したいと言って、ファックスの話しをしてくれた。私は恥ずかしかったけど、「友達だから」と楊さんに言ったら「友達だから」と彼もオウム返しに言ってきた。2人で目を合わせ、同時に「友達だから」と言って泣き顔で笑った。何度も笑った。
2009年3月20日、親友の楊黎明(ヤン.リーミン)の葬儀は、3月のこの時期の大連では珍しい吹雪の中行われた。
体育館位な大きな講堂で彼の遺体がレーニンの様にガラスカバーで覆われた棺に入って飾られている。その側に私と楊さんの家族と4人で並び弔問客への挨拶をする。棺の反対側には10人の楽隊が並び管楽器で葬送曲を奏でた。
とてもとても悲しい音楽だった。参列者は千人くらい訪れてくれた。
1列になって棺の周りを回って、私達に挨拶をし立ち去って行く。悲しい儀式たった。
現在の中国には宗教がない。坊さんを呼んで読経を上げる事も宗教儀式も禁止されている。
しかし、楊さんのお通夜にはこっそり坊主を呼んで読経を上げてもらった。楊健民さんが手配をしてくれていた。
吹雪の中、長い長い葬儀が終わり、やがて火葬場に向かった。
火葬場に入って息を呑んだ。沢山のストレッチャーの上に死体が乗っていた。夫々の人達の死装束は違っていて、生前に一番似合う格好をしてもらっているようだった。
釜戸に入れる時、私は「楊さん」「楊さん」と大声で叫び、泣き崩れた。
息子の楊さんの息子のヤンヨーに抱えられて、その場を去った。
私は彼の骨を見るのは忍びなく、その日に吹雪の舞う大連を後にした。
5月15日、私は旅順の街を見下ろす小高い丘の墓地公園にいた。大親友の楊黎明の墓参の目的でその場にいた。彼の墓には生前の写真が埋め込まれていて、じっと僕を見つめていた。
死者が黄泉の国で使う模造紙幣を燃やし、長い線香を炊き、造花の花束を献花した。
あと2週間経てば大連のアカシヤ祭りだ。1992年5月20日、始めて踏んだ大連で楊さんと飲んだジャスミン茶が懐かしい。
ジャスミン茶の香り
ジャスミン茶の香り14
明の十三稜(じゅうさんりょう)は北京から大凡1時間程度の距離にある。天安門広場から北西へ60kmの位置にあり今では高速道路が通っていて、1時間程度でいけるが当時はまだ2時間はかかった。
途中の神道博物館で食事をし、其の時に「ハヤシライス」みたいな物を食べたが正式名は今となっては判らない。
明の十三陵では公開されているのは三陵だけで、その内の1つの定陵を見学した。三陵だけ公開されていると説明をされていたが、良く聞くと他の陵墓を発掘するには相当の資金と技術が必要と言っていた。
その定陵の特徴は地下27メートルにある地下宮殿で、陵墓全体は前方後円墳。
墳墓丘の上部に有る宝頂の近くの入り口から地下27mに階段を下りる。
地下宮殿は前殿があり、更に進むと次の間が3つに分かれていて中殿と左配殿と右配殿があり見事だ。更に中殿の奥には后殿があり棺が祭られている。
その棺は櫃(ひつ)と呼ばれる物で、日本では昭和天皇が崩御され昭和天皇陵に祀られる時に同じ様な櫃で祀られている。
日本は中国文化と密接な関係にあると感じた。
巨大地下宮殿は大理石の緻密な構築物で、何処を見ても寸分の狂いも無い構造になっていた。いやはや驚いた。その精巧さと保便のよさに感激した。
くまなく散策し次の目的地の「万里の長城」に向かった。
明の十三陵から北東に70km程の距離にある。
途中の車窓からはのどかな田舎風景が続いていた。
遠くには万里の長城が見える。段々とその巨大さが見えてきて、嗚呼あれが万里の長城かと心が弾んだ。楊さんは軽く寝息をたてて昼寝をしている。
私は興奮で落ち着かなかった。やがて万里の長城近くの駐車場に着いた。
車から降りるや否や「○×△□、、、、、、、、」と沢山の物売りが来る,来る。
この駐車場の側にあるトイレは有料で、私は使用しなかったけど見るからに薄汚れていた。最近は判らないが、衛生状態はあまり良くない感じが、漂う匂いから感じ取れた。
その側では別の物売りがミネラルウォーターを売っていた。楊さんが笑いながらこのミネラルウォーターは信用ならないから買わないと言う。「えーっと」と思ったが、よく見るとペットボトルの蓋がどうも怪しい。2人でお互いの顔をみながら笑った。
それから万里の長城の階段を上って行った。幅が3m位の幅だったか、もう少し狭かったかもしれない。気がはやって早く昇りたくて良く覚えていない。
長城の上は幅が5m位で、細かい石畳みたいな感じだった。
「嗚呼、これが万里の長城なのか」と考え深い物が体全体からこみ上げていた。
私は万里の長城で祈りを捧げた。私達の永遠の友情と繁栄を。
しかし、2009年、彼は不帰の人となった。
万里の長城で石畳の上を暫く散歩しながら将来を語った。お互いに終世の友情を守って、お互いの家族を誇りに思い大切にしようと。そして仕事で成功しようと。
万里の長城を後にして,北京に戻った私達は紫禁城を見学に行った。凄い巨大建造物は私を圧巻した。玉座には抜け殻の様な空虚さを感じた。
ジャスミン茶の香り 13
ジャスミン茶の香り13
私が大連を訪問したのが1992年5月10日からの1週間。
1989年から大連ではアカシヤ祭りを催していた。大連市の観光案内には以下の様に書かれている。
大連は昔から「東方魁城(東方のアカシアの都)」と呼ばれており、毎年5月になると一斉にアカシアの花が咲き誇り、町中がアカシアの香りでいっぱいになります。 1989年以来、5月下旬、大連が最も華やかになる頃にアカシア祭りが催されるようになりました。「アカシアの花は友情を結び、旅行事業の発展は、市の発展を促進する」というテーマを元にこの時期には国内外から多くの人が訪れ賑わいます。
私が訪中したときは開催を初めてまだ3年目だったのでそんなに華やかでなかったし、開催の一週間前と言う事で街は静かだった。
余談だけど、私の小学生恩師「飯田郁枝先生」は満州の奉天の出身(現在の遼寧省瀋陽)で1992年の訪中後に飯田先生を訪ねて大連のアカシヤ祭りの話をしたら、先生は「大連のアカシヤはニセアカシヤと言う種類なのよ」と教えてくれた。なんだかアカシヤも偽物なのかと思った記憶がある。
大連は其の昔、東洋の真珠と言われる程美しかったらしい。私が訪れた時は既に街は薄汚れた感じはしたが、それでもやはり「アカシヤの街大連」の呼び方がぴったりの感じだった。
滞在中に楊さんと2人で北京も訪れた。大連から北京は中国南方航空で移動した。おおよそ小1時間程度のフライトだったが殆どが中国人だった。飛行機の中で私がリクライニングシートを倒すと後ろの中国人が何か喚いて、足でそのシートを元に戻そうとした。流石にそれには驚いた。
当時の中国のお金は人民元と兌換券の二本立てで、中国人は人民元しか使えなかった。レートも兌換券の方が高かったし、私が中国で買い物をすると必ず兌換券で買ったら品代を安くすると声をかけられた。そんな通貨も1994年には人民元に統一された。
通貨も二本立てだったが、飛行機も中国国内は中国人専用と外国人専用通路と要人通路に別れていた。
北京では明の十三陵を見学し、万里の長城へ行った。
明の十三陵とは辞典にこのように紹介されている。
明の十三陵(みんのじゅうさんりょう)とは、中国の北京市昌平区天寿山にある明代の皇帝、后妃の陵墓群である。成祖永楽帝以後の皇帝13代の皇帝の陵墓があるため、この通称がある。このうち定陵は発掘され内部は地下宮殿として公開されている。世界遺産「明・清王朝の皇帝墓群」の一部である。
私は万里の長城で願い事をした。私達の永遠の友情と繁栄を願った。
ジャスミン茶の香り 1話〜5話
ジャスミン茶の香りと言うタイトルで話を綴っています。
私と特に親しかった中国人 楊黎明 ようれいめい(ヤン リーミン)との出会いから別れまでの20年間の思い出の話です。
2009年の3月に黒竜江省から遼寧省への帰路、自動車事故で不慮の死を遂げました。
私自身の亡備録と、楊黎明と、楊さんご家族への鎮魂のために書いています。
あしからずご了承下さい。
ふとした外国人交流会から始まった出会いから20年、一言では済ます事の出来ない思いでばかりです。
ジャスミン茶の香り 1
「私の名前は楊(ヨウ)と言います」中国人楊黎明(ヤン、リーミン)と交わした最初の言葉だった。
1990年の11月、下関市立大学で行われた留学生との交流会を一才年下の後輩だった安食(あじき)恵子と開催した。
会の趣旨は留学生と日本人学生、一般市民との交流の機会を広げようだった。
近隣諸国からの留学生が市立大学に沢山来ているのだけど、日本人の学生との交流も市民との交流も殆どなく、同国人同士でしか交流しておらず、孤立している、どうにかして交流の場が持てないかと言う相談を安食からされた。
安食恵子は小学校、中学校の一歳年下の後輩でとても活発な子だった。
下関市の職員で、勤務は下関市立大学の図書館だった。
仕事の傍らで色々なサークル活動を積極的にこなしていた。アジア映画祭も企画、実行していた。
その時の私は下関に戻ってきて水産会社の社員だった。
そんな時、安食から「ねえ、相談に乗ってくれない」と言われて、交流会の企画に参加した。
企画の内容は夫々の国の学生がお国自慢の料理を一品作って集まってもらい、お互いの国を紹介しながらお国自慢の料理を披露し、皆で食べようと言うものだった。
安食から「ねえ、私達はやはりフグ料理やろうね」「そうやね」料理がきまった。
しかし、その当時の私はフグへの知識は無かった。フグ料理の経験すらなかった。全くの素人だったのである。
企画したのが9月初旬。
「安食、どうするん」「経験者に色々聞けばええやない」「相談するか」
レッツゴーだった。
今は亡き平越商店社長の平尾光司さん、ふぐ名人の西山さん、唐戸市場、etc皆さん良く援助をして頂いた。
開催の当日、私のテーブルで隣に座ったのが楊さんだった。
「私の名前は楊(ヨウ)と言います」
私達の交流が始まった。
私がフグの仕事を始めたのにはこの様な出来事があった。
続く
シャスミン茶の香り 2
1990年の11月、下関市立大学で行われた留学生との交流会で一才年下の楊黎明と出会った。出身は遼寧省の大連市と言う。
楊「私のお父さんは大連市の副市長です」「一度遊びに来て下さい」その当時はまだたどたどしい日本語で中国へ招待された。
交流会の席上で偶然に隣り合わせになったのが楊さんだった。
「私の父は大連の市長です」唐突に何をこの中国人は言うのだろう、私は唖然として聞いたけれど「じゃあ一度訪問するよ」と軽く言って話題をそらした。
心の中では、何かでっかい話をしてるなぁ、程度の気持ちはしたが後々、大親友になるとは思わなかった。
彼は国費留学生で一緒に黄(こう)さんと2人で来日していた。宿舎は山口銀行の綾羅木の保養施設を寮として使っていた。
交流会の日に何か気が合い、その日のうちにとうとう自宅までつれて帰る羽目になった。
私の三人の子供達は何れも小学生で、突然現れた中国人にびっくりしていた。
「私の名前は楊です。中国の遼寧省から来ました」
「私の名前は黄と申します。中国の遼寧省から来ました」
黄さんの方が当時は日本語が上手で、楊さんの日本語は意味不明が多かったが、それでも楊さんの方が日本にとけ込むのが早かった様に感じられた。
その日は家族の紹介だけで済ましたが、後日改めて食事をしようと約束した。
内容はこの次の休みの日に我が家で日本料理を作ってパーティーをしよう。
私が日本の代表的な料理をつくるから、楊さん達も中国の料理を作ってくれないかと言うものだった。双方合意をし、折角だからこの次は日本料理でパーティーをして、その次の時に中国料理をしようと言う事になった。
当時はまだサラリーマンで女房と子供三人、私の母親と六人で生活していた。
主に私の収入で生活していて、家計に余裕はなかったけれど人との交流は欠かせないものだったし、不思議とお金に困った事はなかった。
代表的な日本料理、しかも彼らとの約束は自分で料理をつくると言うものだった。多少なりとも料理には自信があったけど、中国人が美味しいと喜んでくれるだろう料理とは「んーーーーん、何がええかなぁ」。
続く
ジャスミン茶の香り 3
どんな日本料理が良いのかな、と言うよりも自分で出来る手作りの料理でもてなしたいと思った。1990年代では中国の事はあまり情報がなく、生活習慣もなんとなくしか判らなかった。
そうだ、中国と言えば餃子だ。餃子は楊さん達が作ってくれるから関連したものだったら外れないだろうと思った。中国人相手に酢豚とか、なんとなく日本人が想像する料理は面白くないし、ましてやそれは失礼と思った。
餃子と言えば小麦粉が原料だ。小麦粉を利用した料理だったらうどん、お好み焼き、たこ焼き、等をとりあえずの候補とした。
皆でガヤガヤと騒ぎながら一緒に料理に参加して、我が家の子供達も家内も母も参加できる物、それは「たこ焼きや」と叫んで其れに決めた。
楊さんが後日いつも笑って言うのは「日本の代表的な料理は、たこ焼きです」「あはっはっはっは」何時もこの話題で笑った。
招待の当日、楊さんと黄さんはスーツにネクタイと言う格好で現れた。綾羅木の山口銀行の宿舎に迎えに行ったのだけど正装なので少し驚いた。
普段着で良いのにと言うと、外出着はあまり持っていないし、訪問するのだったらこの格好が一番便利だからと言っていた。
家に連れてかえると早速に良く冷えたビールで乾杯した。驚いた事に冷えたビールは苦手だと言う。楊さん達と出会った翌年に大連を訪れたが、やはり冷えてないビールだった。
程なく賑やかに日本の代表的料理「たこ焼き」が始まった。皆が15個ある穴をじっと見めている中、厳かに私が油を塗る。割り箸の先に木綿を丸めて照る照る坊主を作った物が用意されている。家内が作った。そのタンポンに油を染み込まして使う。お座敷用コンロをテーブルの真ん中に設置する。我が家では楕円形のちゃぶ台の大型を使用しているので10人は座ってもテーブルを囲む事ができた。テーブルの真ん中の15個の穴に全員が凝視している。コンロに点火して暫したつと鉄板から煙が出始める。鉄板に火が通った頃合いを見計らって照る照る坊主で油を万遍なく塗る。穴の中も1つ1つ丁寧に油を塗っていく。
コンロの火を中火くらいに小さくしてから溶いた小麦粉を入れる。小麦粉にあらかじめ粉の鰹節をいれ、塩も若干いれて薄味をつけておく。溶いた小麦粉を夫々の穴にたっぷり入れて、穴の外側の平らな部分迄小麦粉がこぼれる様に入れる。
次にカットした茹でタコを穴にいれ、次に天かすと粉のかつお節を入れる。その次にカットしたキャベツを入れる。キャベツはみじん切りをし、小ネギも刻んで良く混ぜ合わせた物を使用する。
たこ焼き鉄板の上はさながらお好み焼き状になる。突然何も知らないでこの鉄板を見た人は、何とせこい鉄板で沢山の人がお好み焼きを食べるせこい家族か、何かの観察か研究をしているのでは無いかと勘違いするのではないだろうか。
待つ事1分〜2分程度か。焼き鳥の串を利用して、たこ焼きの形を整えていく。この辺りから国技のような儀式となって行く。
先ず左端の1個を端っこに串の先端で突っつく。鉄板から少し外れたら成功に近い。ベドベトしていたら早すぎるし、鉄板の熱の伝わり方が悪いか、鉄板に油を塗るタイミングが悪いかの何れだ。何せ国技だから厳粛に対応しなくてはならない。緩いビールも飲まないといけないし、彼らとの会話も重要だしこの場合の日中国交は非常に楽しかった。
左端の1個で試し打ちをして具合が良ければ、全体作業に取りかかる。横線2本、縦線4本に筋目を入れて15個の穴を独立させる。チベットもこの様に独立させれば良いとおもう。ダライラマとコキントウがたこ焼き外交をすれば良いと思う。と書きながら思った。
独立した穴に焼き鳥の串を使って玉を丸めて行く作業に取りかかる。何れの玉からも身がはみ出ているので穴に収めて行く。はみ出た部分を穴に入れて玉を仕上げていく。しかし、この段階では玉の中をジューシーに保たないといけない。玉の片側だけ固いと立派な玉には育たない。優しく素早く串の先に神経を集中して作業を進めて行く。
ようやくはみ出た部分を玉に入れて立派になってくると今度はじっくり火を入れて行く。玉の中のタコに火が通って玉の中と玉を同化させて、しかしソフト感も有る様な微妙な物に仕上げないといけない。ときたま生温いビールと日中外交をしながら、子供達へも人の出会いの大切さを教えながら国技をすると言うのは並大抵ではない。
やがて艶光りした玉が出来上がる。何度も穴の中で転がった玉は立派な存在感を放ち始める。そろそろ食べごろだ。楊さんと黄さんの皿に艶光りすねたこ焼きを置き、ウースターソースを塗り、カツオの削り節と青のりをかけて食べた。
「ハフハフ、ニイハオ、×▽★※????????」「旨いあるよ」「しえーしぇー」我々の国交は回復した。食べる事永遠と5時間、たこ焼きは続き、はふはふ食べた熱いたこ焼きを緩いビールで飲んでいたら言葉の壁を乗り越えて心が通じ合ってきた。
私達の友情はその後続いて行く。
続く
ジャスミン茶の香り 4
私達の日中国交は回復し順調な滑り出しをした。国技「たこ焼き」外交の成功だった。次回の国交正常化への会議の日程と議題について話し合って別れた。
次回の会議は二週間後、議題は「中国における餃子の現状」で、今後も継続して双方の理解を深めて行こうと決めた。
待ち遠しい二週間はあっと言う間に過ぎてその日が来た。子供達は中国人の知り合いが出来たと喜んでいるし、母も今度は本番の餃子が出来ると心待ちにしていた。私は彼らに必要な食材を言ってくれれば用意すると伝えていた。別にたいした物は必要ないので、当日マーケットに買いに行けば良いと言う。
当日の昼過ぎに当時住んでいた白雲台の自宅から近くのスーパーマーケットに買い出しに行った。強力粉と薄力粉を買い、白菜と魚のサワラを買った。たった其れだけの買い物だった。「ねえ、肉買うのを忘れてない?」と言ったら之で良いと言う。
大連の餃子は海鮮だから、まあこんなので良いあるよ。と言う。一緒に自宅に帰って第2回国交正常化の準備にかかった。楊さんと黄さんは早速粉を会わせて水を加えこね始めた。直ぐに団子になり少しこのままで寝かせると言って私達は程よく冷えたビールを飲み始めた。良く聞くと冷えたビールに馴染むとそれは其れで旨いと言う。そうだろうなぁ、と思ったが黄さんは冷たいビールはやはり頭が痛くなると言っていた。黄さんに冷たいビールを出すと常温に戻して飲んでいた。やはり所かわれば品かわるのだと思った。
そうこうしている間に招待していた無敵ご夫妻が来た。無敵(むてき)とそのまま読むが珍しい名前だ。幕末の江戸時代に毛利の殿様から無敵勝ノ伸何がしと言う偉い方が足軽から功績をたたえられ士分に召し上がった時に頂いた有り難い名前だとか。
無敵家が加わり談笑は更に進むと楊さんが無敵は中国人でも凄い名前とおもうあるよ、と言い一同で爆笑した。
寝かしておいた餃子の皮の制作に皆でかかわった。講師は楊さん。中の具の指導は黄さん。
皮は水を入れてこねた小麦粉を寝かした後におはぎ位の団子にする。其れを台の上で延ばして行き、葉巻位の太さにする。その細長いチューブ状の物をちぎって行き、小さな団子片にする。
その団子片を15cm位の長さの小さな麺棒で広げていく。ひょいひょいと廻して延ばしたら餃子の皮になる。私は上手に拡げなかったけど、子供や家内は直ぐに習得した。中身はサワラを細かく切って包丁で叩いてミンチ状にし、少し塩をした物に白菜みじん切りを加えて作っていた。何ともヘルシーで、人口調味料も無く健康に良さそうな餃子になっていった。
皮も身も出来たので今度は包む段階になった。へらで一寸身をとってから皮に盛って包んで行く。こまめに指先を動かして、昔小学校の家庭科の時間で習った運針のかんじだった。
餃子を良く作る方はご承知だろうが、縁に少し水をつけて皮と皮を引っ付ける。子供も家内も母も上手だった。
バットにずらり並べて食べる段取りをした。中国の餃子は水餃子で焼き餃子はあまりないと言う。焼いてこそ餃子と言えるのにと言ったら、軽く笑われた。水餃子は酢醤油で食べる。んー健康志向と感心した。
その日は昼から段取りをしたが日中国交会議が終了した時間には日が暮れていた。マオタイ酒で乾杯したが、当時の私は飲めなかった。今では4合瓶を一人で空にする程中国を理解するようになったが、一杯の酒に手間取ったあの頃が懐かしい。
楊さんと黄さんのお陰ですっかり中国に魅せられた。
ジャスミン茶の香り 5
この交流会をきっかけに私はふぐ処理師の資格をとり独立を考える様になった。勤務している会社がフグ処理の仕事をしていて、その経験が功を奏して翌年の3月に免許を頂いた。若干は携わっていたがその年の年末から猛勉強をした。
当時勤務していた会社で課長職をしていて夕方には退社できるのんびりとした時代だった。退社したあと九時頃まで名人の誉れが高い西山さんにフグ料理を毎日教えて頂いた。帰宅して仮眠をし、夜中の1時に仲卸の「なかを」の現場で捌きから流通まで毎日教えて頂いた。朝の7時に「なかを」の従業員全員で朝食をとり私は帰宅し、その足で勤務していた会社に出社していた。これが4ヶ月続いた。
子供から頑張ってと手紙をもらったのは今でも大切に持っている。
楊さんと黄さんは1992年3月に中国に帰国した。帰国間際に私達三人は桃園の契りを結んだ。中国の三国志に習って兄弟の約束をした。これから三人は兄弟だと強く手を握りしめた。
夫々が互いに再会を誓って別れたが、その年の5月に訪中の約束をした。楊さんが別れ際に「私のお父さんは大連の副市長です。中国滞在中は全て私が面倒をみるから手ぶらで来て下さい」と言う。出会った時もそのような話だった。この時は頼もしく感じられた。
楊さんのお父さんは楊建明氏で中国遼寧省大連市の副市長で政治家。共産党員で中国の全人代に出席される大実力者だった。北九州市と大連市は1990年代から友好姉妹都市でその締結をされた方だった。今にも北九州市と大連市にはその功績を讃えた史物が残っている。楊建明さんはテニスをされていて日中友好テニスクラブの会長を今も現役でされている。
ジャスミン茶の香り 12
ジャスミン茶の香り12
もう1人の友人、黄さんの自宅は中山広場から車で20分程度の場所だった。缶詰工場の工場長をしている父親と母親と同居で住んでいる家は4階建てで、其の建物も旧日本領の時の建物だった。一階が商店で二階から上がアパートになっているコンクリートの建物だった。
黄さんの家は4階だった。トイレを借りたら1階にあると言う。行ってみるといわゆるポッチャントイレで臭気が凄かった。
トイレを借りた後から宴会だったので中々気持ちが乗れなかった。凄く親切にしてくれたのだけどビールを飲み続けている内に又トイレがしたくなった。
私が小便をしたいと思っていたら黄さんが狭い台所の隅で小便をしている。部屋が4つ有って1つが台所。2つが寝室、1つが居間。
どの部屋も狭いのにそこでトイレをしている。側で黄さんの奥さんのお兄さんが料理をしていた。黄さんの義兄は料理人で私が来たので料理を作りに来ていた。中国人は床にしゃがんで料理をする。其の時はしゃがんで刺身を作っていた。そして黄さんも側で小便をしていた。
私の歓迎会はこうして始まった。しかし、この文化の違いには驚愕した。
そして其の後に折角だからと言って生温いヒラメの刺身と特別にと犬の肉料理を作ってくれた。
しだいにお酒はビールから白酒(パイチュウ)になり、遼寧省のなんちゃらと言う有名な酒だから飲め飲めと勧められて飲んだ。いまは大丈夫だけど当時はとても臭かった感じがした。大歓迎で迎えられて嬉しかったけど、トイレ、手作りの刺身に犬料理、パイチュウの繰り返しでお腹が痛くなった。1階のトイレで難儀をした。これも今では忘れられない中国の思い出になっている。
ジャスミン茶の香り
ジャスミン茶の香り11
1992年当時の大連空港はまだボロな建物で二階建てのモルタル造り程度の粗末な感じがした。しかし空港滑走路の側にある飛行機の格納庫には旧ソビエト製のミグ戦闘機が注機していた。格納庫にも何台かあったけれど何れもシートで覆われていて、どう見てもスクランブル体制でない事は良くわかった。
空港から市街地を通って楊さんの自宅に両親を訪問して歓迎をうけた。
あなたが日本の息子かと言う暖かい眼差しで歓迎をしてくれた。
宿泊は大連賓館と言う戦前の日本が建てた立派なホテルで、昔は大和ホテルと言っていたと言う。往事の豪華さは戦後40年が経過しても衰えず豪奢な建物は立派だった。ホテルの部屋は天井も高く部屋も二部屋有って、応接間と寝室だったのだが夜は不気味で怖かった思い出がある。
ホテルの前が中山広場でこれは「ちゅうざんひろば」と呼んでいた。そこから放射線状に道が分かれていてとても整った町並みだった。
他にも革命広場が有って、大きな壁面に兵士の戦う姿がモチーフで刻まれていた。共産党の建物と市議会の会議場等が豪華に建っていた。
町には人が溢れ、電線ケーブルで走るとローリーバスが沢山走っていた。時々パンタグラフから電線が外れて手こずっている様子が時々見受けられた。
楊さんの自宅は旧日本軍の高級将校の家で二階建ての洋館で自宅のトイレは水洗便所だった。こじゃれた庭もあり当時の豪華さをそのまま中国が接収したことが良くわかった。
ジャスミン茶の香り
ジャスミン茶の香り10
楊さん達が帰国したのが3月の20日過ぎで、私の退社が4月の末日だった。
4月20日に会社の登記をし、私は勤務している会社で課長、営業活動が始まっていない会社の社長と二足のワラジを履いた。たったの10日間だけど。
私が独立を志しているのは修行した「なかを」の社長も良く知っていて、会社を移らないかと誘われたけど独立したいからと断り続けた。じゃぁ仕方ないと言って彦島西山町の事務所と工場を無償で提供してくれた。何ヶ月間は無償だったが、それでは会計上まずいのでと言って双方合意のもと、とても安い借料で契約して頂いた。本当に有り難かった。
本格的に仕事を始めたのが5月20日だった。人生の中で後にも先にも20日間休んだのはこの時だけだ。
私はこの間を利用して中国へ渡った。ビザの申請を博多の領事館で行い、JALで大連へ渡った。
楊さんとの約束で私が中国滞在中は楊さんの財布で生活する。私は往復の飛行機賃だけで来いと言う。「私のお父さんは大連の副市長です。何でもできます」
アー又、出た出たと何時も思っていたが、現実に大連空港に降り立ったら驚いた。いわゆる検疫区つまり中国と言えども入国審査をパスして荷物をとりゲートをくぐったら中国国内だが、入っては行けない場所に楊さんがいるではないか。
そこは駄目だろうと言うと、「ここは大連、何でも出来るあるよ」うっそー、な感じで驚愕した。コンコルドよりも早いスピードで通関をし、送迎車発着口に行って又驚いた。この車に乗って下さいと言う。大型のベンツではないか。
なんじゃこの車はと言う私を尻目に「ここは大連、何でもできるあるよ」と言っている。いきなり原爆級の出迎えを受けた私はすっかりお客様になってしまい、この後遼寧省一帯を旅行し、北京に行き、大連で大歓迎されそれはそれは大切にしてもらった。
正直この時期の私は現地の中国料理に馴染めなかった。一週間の滞在中に出される食事は全て「旨い、美味しい」と言って食べたけど、其の当時は八角やパクチー等の香味野菜や調味料がやけに嫌で仕方が無かった。今から考えると非常に勿体ない感覚だった。
ジャスミン茶の香り
ジャスミン茶の香りについて
私と特に親しかった中国人 楊黎明 (ようれいめい)(ヤン リーミン)との出会いから別れまでの20年間の思い出の話です。
今年の3月に黒竜江省から遼寧省への帰路、自動車事故で不慮の死を遂げました。
私自身の亡備録と、楊黎明と、楊黎明ご家族への鎮魂のために書いています。
あしからずご了承下さい。
ふとした外国人交流会から始まった出会いから20年、一言では済ます事の出来ない思いでばかりです。
ジャスミン茶の香り 9
やがて3月が訪れて楊さんと黄さんの帰国が決まった。私は1月に行われた「ふぐ処理士」の試験に合格していて免許状の交付を待つのみとなっていた。
帰国前になる頃になると彼らがは是非とも中国に来て欲しいと言う。楊さんも黄さんも「帰国したら大連で待つあるよ」「きっと大連で会うあるよ」と何度も何度も言ってくれた。
私は「日本でツバメが飛ぶ頃には必ず行くから」と約束して彼らと別れた。
4月2日に私のふぐ処理士の免許状が届いた。
2月には合格は判っていたので会社には退社の申し出をしておいた。随分と慰留され最後には工場長をして貰う予定だからと言われたので、それはいつですかと尋ねたら後10年後だと言う。この会社とは付き合いができないとつくづく思った。
しかし、免許はとって、やる気はあってもお金が全然なかった。収入の全ては3人いる子供の養育費と家の生計にあてられていて、母とも生活をしていたので貯蓄等は他人事だった。しかし、私の背中を目に見えない力がぐいぐいとおしている。独立の方向へと。
3月のある日友人と食事をしていたとき「独立するのか」と唐突に問われた。「そのつもりでやってきた」「資金は」「、、、、、、、、、」
私には答えがなかった。友人が明日も食事をしようと言う。承諾して別れた。
翌日、昨日と同じ場所でおちあい飲み始めると、唐突に紙袋を出された。
「なにこれ」「黙って使ってくれよ」
中をみると300万円入っていた。「どうしてこれを」驚いてきいたら昨日聞いたらそれだけ有れば独立できると言ったじゃないかと言う。確かに言った。がしかしだ。
いいから、期限無しの融資だぞ、でも返済は絶対にするのだぞと言われて借用がきまった。後日談だがこのお金は2年後に返済できた。
そのお金を借してくれた友人の窮地を数年前に救った事があった。それを律儀に覚えていてそのお返しだと言う、その様なつもりでしたのではなかったのに、、、
その日の夜は興奮して眠れなかった。
友情と言う熱い物に包まれて私は幸せだった。
ジャスミン茶の香り について
私と特に親しかった中国人 楊黎明 ようれいめい(ヤン リーミン)との出会いから別れまでの20年間の思い出の話です。
今年の3月に黒竜江省から遼寧省への帰路、自動車事故で不慮の死を遂げました。
私自身の亡備録と、楊黎明と、楊黎明ご家族への鎮魂のために書いています。
あしからずご了承下さい。
ふとした外国人交流会から始まった出会いから20年、一言では済ます事の出来ない思いでばかりです。