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ジャスミン茶の香り

ジャスミン茶の香り 8

川崎さんの家に泊まる事が決まって一番困ったのかは川崎さんだった。何せ中国人の要人である。食べ物の心配から風呂の心配、寝具の心配から朝食そして便所の心配まで大凡人の一生の面倒を見る様な心配をしたらしい。

もっと心配した人達がいる。それは警察の公安だった。警察の公安は川崎さんの身辺も色々とプライベート事まで調査や付近の聞き込みをしたらしい。役所から頼まれてしている仕事で、人の家を土足で床の間にあがられては誰しも怒るだろう。しかし其れが当時の日本だったのだ。

この話で今でも可笑しいし、楊健民さんも川崎さんも愛想を崩して話をするものがある。それが風呂の話だ。

川崎さんは家には立派な風呂がある。しかし中国人の要人が喜ぶかどうか判らない。一計を案じて、家の直ぐ側に流れる川に併設してドラム缶で露天風呂をつくった。

これに楊健民さんは喜んで日本の夜空を眺めながら風呂を楽しんだのだった。

私の知る限りではこの20年間、両者に会うと必ずこの話が出て来て、いつ聞いても楽しい思いで話となる。これが民間外交の醍醐味だろうと思う。

ジャスミン茶の香り

ジャスミン茶の香り7

彼らとの楽しい日々か続いたある日、楊さんが私に紹介したい日本人がいると言う。

聞けば北九州市小倉南区に住んでいる川崎さんと言う人だとか。気楽な気持ちで「じゃあ、今度の日曜日」と言う事になり、私の家族全員と楊さん、黄さんの6人で私の車に詰め込んで訪問した。

川崎さんは農業をされていて、兼業にアパート経営をされていた。

普段は農協の役員の仕事をされていて、かなりの実力者だとか聞いたが見るからに普通のおじさんだった。このかたは後年農協の理事長となり活躍されるのだが、当時にその片鱗を見る事はなかった。

なぜ訪問したかと言うと川崎さんと楊さんのお父さんが老朋友(ラオポンユウ)と言う。1980年代までの日本で中国人を、まして国の要人を民間人の家に宿泊させる事は絶対と言って良い程少なかった。

それが、楊健民さんが川崎さんのお家に宿泊をしたと聞いてビックリした。其れ以来楊健民さんと川崎さんは親友と言う。

説明すると北九州市と大連市の友好姉妹都市の締結にむけて交渉の大詰めに楊健民さんを北九州市が招いた、招いたが何処か民間人の家に宿泊をしてもらい、民間外交もやっていますよと言うポーズも必要だった。

日中国交回復と言う言葉を今の人はあまり知らないと思うけれど、私達の頃は中国との国交はなく、中国への入り口はもっぱら香港経由が一般的だった。

それがスポーツの交流をきっかけに、特に卓球が中心となり民間外交が始まりやがて田中角栄が訪中し、北京で歴史的な国交回復の筋道をたてた。いわゆるピンポン外交での成果だった。だから北九州市も民間外交の演出をするために川崎さんにお願いをして南区の田舎に泊めてもらったと言うストーリーとなったとか。

続く

ジャスミン茶の香り

ジャスミン茶の香り 6

1991年から1年間の短い付き合いだったが色々と思い出が有る。日本国中そうだったと思うけど、下関市も大型ゴミの日と言うのがあって決められた曜日には沢山の大型ゴミが出ていた。バブル絶頂後の時期、今では考えられない宝の山が街角にあふれていた。街を歩いているとあれも使える、これも欲しいと思うものが多かった。特にインテリアは優れた物が沢山あって、拾って家に持ち帰った物もあった。

日本人の私がそうなのだから、中国人の彼らにとれば日本の大型ゴミ置き場はさながら中国の青空市場で、しかも無料だから何時も話題にしていた。

当時の彼らの話では生活に使用している電化製品は全てこの粗大ゴミの青空市場で調達したと言っていた。

年が明けて少し暖かくなった頃、アルバイトに行くと言っていたので「どこで」と尋ねたら「クロネコヤマト」に行くと言っていた。他のアルバイトより日本語を話さないで良いので働き易いと言う。楽ではないけど楽しいと言っていた。

山の田に「水舎(すいしゃ)」と言う小料理屋があり、そこの女将さんが何かと良くしてくれると言う。ぼくも夕方行ってみたら楽しい人だった。下東さんと言われ、お父さんは元軍人さんで厳しそうな人だった。当時60歳は過ぎていたと思うけど、下関市立大学に聴講生として通って中国語を習っていた。其の関係で留学生と交流があるのが判って小料理屋と留学生の奇妙な関係が理解できた。

後年,下東さんは中国山東省青島にある青島大学に店をたたんで留学してしまった。先日訪問して会う事は出来なかったが、青島日本人会で活躍をしていると聞いた。

続く

ジャスミン茶の香り

ジャスミン茶の香り 5

この交流会をきっかけに私はふぐ処理師の資格をとり独立を考える様になった。勤務している会社がフグ処理の仕事をしていて、その経験が功を奏して翌年の3月に免許を頂いた。若干は携わっていたがその年の年末から猛勉強をした。

当時勤務していた会社で課長職をしていて夕方には退社できるのんびりとした時代だった。退社したあと九時頃まで名人の誉れが高い西山さんにフグ料理を毎日教えて頂いた。帰宅して仮眠をし、夜中の1時に仲卸の「なかを」の現場で捌きから流通まで毎日教えて頂いた。朝の7時に「なかを」の従業員全員で朝食をとり私は帰宅し、その足で勤務していた会社に出社していた。これが4ヶ月続いた。

子供から頑張ってと手紙をもらったのは今でも大切に持っている。

楊さんと黄さんは1992年3月に中国に帰国した。帰国間際に私達三人は桃園の契りを結んだ。中国の三国志に習って兄弟の約束をした。これから三人は兄弟だと強く手を握りしめた。

夫々が互いに再会を誓って別れたが、その年の5月に訪中の約束をした。楊さんが別れ際に「私のお父さんは大連の副市長です。中国滞在中は全て私が面倒をみるから手ぶらで来て下さい」と言う。出会った時もそのような話だった。この時は頼もしく感じられた。

楊さんのお父さんは楊建民氏で中国遼寧省大連市の副市長で政治家。共産党員で中国の全人代に出席される大実力者だった。北九州市と大連市は1990年代から友好姉妹都市でその締結をされた方だった。今にも北九州市と大連市にはその功績を讃えた史物が残っている。楊建民さんはテニスをされていて日中友好テニスクラブの会長を今も現役でされている。

続く

ジャスミン茶の香り

ジャスミン茶の香り 4

私達の日中国交は回復し順調な滑り出しをした。国技「たこ焼き」外交の成功だった。次回の国交正常化への会議の日程と議題について話し合って別れた。

次回の会議は二週間後、議題は「中国における餃子の現状」で、今後も継続して双方の理解を深めて行こうと決めた。

待ち遠しい二週間はあっと言う間に過ぎてその日が来た。子供達は中国人の知り合いが出来たと喜んでいるし、母も今度は本番の餃子が出来ると心待ちにしていた。私は彼らに必要な食材を言ってくれれば用意すると伝えていた。別にたいした物は必要ないので、当日マーケットに買いに行けば良いと言う。

当日の昼過ぎに当時住んでいた白雲台の自宅から近くのスーパーマーケットに買い出しに行った。強力粉と薄力粉を買い、白菜と魚のサワラを買った。たった其れだけの買い物だった。「ねえ、肉買うのを忘れてない?」と言ったら之で良いと言う。

大連の餃子は海鮮だから、まあこんなので良いあるよ。と言う。一緒に自宅に帰って第2回国交正常化の準備にかかった。楊さんと黄さんは早速粉を会わせて水を加えこね始めた。直ぐに団子になり少しこのままで寝かせると言って私達は程よく冷えたビールを飲み始めた。良く聞くと冷えたビールに馴染むとそれは其れで旨いと言う。そうだろうなぁ、と思ったが黄さんは冷たいビールはやはり頭が痛くなると言っていた。黄さんに冷たいビールを出すと常温に戻して飲んでいた。やはり所かわれば品かわるのだと思った。

そうこうしている間に招待していた無敵ご夫妻が来た。無敵(むてき)とそのまま読むが珍しい名前だ。幕末の江戸時代に毛利の殿様から無敵勝ノ伸何がしと言う偉い方が足軽から功績をたたえられ士分に召し上がった時に頂いた有り難い名前だとか。

無敵家が加わり談笑は更に進むと楊さんが無敵は中国人でも凄い名前とおもうあるよ、と言い一同で爆笑した。

寝かしておいた餃子の皮の制作に皆でかかわった。講師は楊さん。中の具の指導は黄さん。

皮は水を入れてこねた小麦粉を寝かした後におはぎ位の団子にする。其れを台の上で延ばして行き、葉巻位の太さにする。その細長いチューブ状の物をちぎって行き、小さな団子片にする。

その団子片を15cm位の長さの小さな麺棒で広げていく。ひょいひょいと廻して延ばしたら餃子の皮になる。私は上手に拡げなかったけど、子供や家内は直ぐに習得した。中身はサワラを細かく切って包丁で叩いてミンチ状にし、少し塩をした物に白菜みじん切りを加えて作っていた。何ともヘルシーで、人口調味料も無く健康に良さそうな餃子になっていった。

皮も身も出来たので今度は包む段階になった。へらで一寸身をとってから皮に盛って包んで行く。こまめに指先を動かして、昔小学校の家庭科の時間で習った運針のかんじだった。

餃子を良く作る方はご承知だろうが、縁に少し水をつけて皮と皮を引っ付ける。子供も家内も母も上手だった。

バットにずらり並べて食べる段取りをした。中国の餃子は水餃子で焼き餃子はあまりないと言う。焼いてこそ餃子と言えるのにと言ったら、軽く笑われた。水餃子は酢醤油で食べる。んー健康志向と感心した。

その日は昼から段取りをしたが日中国交会議が終了した時間には日が暮れていた。マオタイ酒で乾杯したが、当時の私は飲めなかった。今では4合瓶を一人で空にする程中国を理解するようになったが、一杯の酒に手間取ったあの頃が懐かしい。

楊さんと黄さんのお陰ですっかり中国に魅せられた。

続く

ジャスミン茶の香り

ジャスミン茶の香り 3

どんな日本料理が良いのかな、と言うよりも自分で出来る手作りの料理でもてなしたいと思った。1990年代では中国の事はあまり情報がなく、生活習慣もなんとなくしか判らなかった。

そうだ、中国と言えば餃子だ。餃子は楊さん達が作ってくれるから関連したものだったら外れないだろうと思った。中国人相手に酢豚とか、なんとなく日本人が想像する料理は面白くないし、ましてやそれは失礼と思った。

餃子と言えば小麦粉が原料だ。小麦粉を利用した料理だったらうどん、お好み焼き、たこ焼き、等をとりあえずの候補とした。

皆でガヤガヤと騒ぎながら一緒に料理に参加して、我が家の子供達も家内も母も参加できる物、それは「たこ焼きや」と叫んで其れに決めた。

楊さんが後日いつも笑って言うのは「日本の代表的な料理は、たこ焼きです」「あはっはっはっは」何時もこの話題で笑った。

招待の当日、楊さんと黄さんはスーツにネクタイと言う格好で現れた。綾羅木の山口銀行の宿舎に迎えに行ったのだけど正装なので少し驚いた。

普段着で良いのにと言うと、外出着はあまり持っていないし、訪問するのだったらこの格好が一番便利だからと言っていた。

家に連れてかえると早速に良く冷えたビールで乾杯した。驚いた事に冷えたビールは苦手だと言う。楊さん達と出会った翌年に大連を訪れたが、やはり冷えてないビールだった。

程なく賑やかに日本の代表的料理「たこ焼き」が始まった。皆が15個ある穴をじっと見めている中、厳かに私が油を塗る。割り箸の先に木綿を丸めて照る照る坊主を作った物が用意されている。家内が作った。そのタンポンに油を染み込まして使う。お座敷用コンロをテーブルの真ん中に設置する。我が家では楕円形のちゃぶ台の大型を使用しているので10人は座ってもテーブルを囲む事ができた。テーブルの真ん中の15個の穴に全員が凝視している。コンロに点火して暫したつと鉄板から煙が出始める。鉄板に火が通った頃合いを見計らって照る照る坊主で油を万遍なく塗る。穴の中も1つ1つ丁寧に油を塗っていく。

コンロの火を中火くらいに小さくしてから溶いた小麦粉を入れる。小麦粉にあらかじめ粉の鰹節をいれ、塩も若干いれて薄味をつけておく。溶いた小麦粉を夫々の穴にたっぷり入れて、穴の外側の平らな部分迄小麦粉がこぼれる様に入れる。

次にカットした茹でタコを穴にいれ、次に天かすと粉のかつお節を入れる。その次にカットしたキャベツを入れる。キャベツはみじん切りをし、小ネギも刻んで良く混ぜ合わせた物を使用する。

たこ焼き鉄板の上はさながらお好み焼き状になる。突然何も知らないでこの鉄板を見た人は、何とせこい鉄板で沢山の人がお好み焼きを食べるせこい家族か、何かの観察か研究をしているのでは無いかと勘違いするのではないだろうか。

待つ事1分〜2分程度か。焼き鳥の串を利用して、たこ焼きの形を整えていく。この辺りから国技のような儀式となって行く。

先ず左端の1個を端っこに串の先端で突っつく。鉄板から少し外れたら成功に近い。ベドベトしていたら早すぎるし、鉄板の熱の伝わり方が悪いか、鉄板に油を塗るタイミングが悪いかの何れだ。何せ国技だから厳粛に対応しなくてはならない。緩いビールも飲まないといけないし、彼らとの会話も重要だしこの場合の日中国交は非常に楽しかった。

左端の1個で試し打ちをして具合が良ければ、全体作業に取りかかる。横線2本、縦線4本に筋目を入れて15個の穴を独立させる。チベットもこの様に独立させれば良いとおもう。ダライラマとコキントウがたこ焼き外交をすれば良いと思う。と書きながら思った。

独立した穴に焼き鳥の串を使って玉を丸めて行く作業に取りかかる。何れの玉からも身がはみ出ているので穴に収めて行く。はみ出た部分を穴に入れて玉を仕上げていく。しかし、この段階では玉の中をジューシーに保たないといけない。玉の片側だけ固いと立派な玉には育たない。優しく素早く串の先に神経を集中して作業を進めて行く。

ようやくはみ出た部分を玉に入れて立派になってくると今度はじっくり火を入れて行く。玉の中のタコに火が通って玉の中と玉を同化させて、しかしソフト感も有る様な微妙な物に仕上げないといけない。ときたま生温いビールと日中外交をしながら、子供達へも人の出会いの大切さを教えながら国技をすると言うのは並大抵ではない。

やがて艶光りした玉が出来上がる。何度も穴の中で転がった玉は立派な存在感を放ち始める。そろそろ食べごろだ。楊さんと黄さんの皿に艶光りすねたこ焼きを置き、ウースターソースを塗り、カツオの削り節と青のりをかけて食べた。

「ハフハフ、ニイハオ、×▽★※????????」「旨いあるよ」「しえーしぇー」我々の国交は回復した。食べる事永遠と5時間、たこ焼きは続き、はふはふ食べた熱いたこ焼きを緩いビールで飲んでいたら言葉の壁を乗り越えて心が通じ合ってきた。

私達の友情はその後続いて行く。

続く

ジャスミン茶の香り

シャスミン茶の香り 2

1990年の11月、下関市立大学で行われた留学生との交流会で一才年下の楊黎明と出会った。出身は遼寧省の大連市と言う。

楊「私のお父さんは大連市の副市長です」「一度遊びに来て下さい」その当時はまだたどたどしい日本語で中国へ招待された。

交流会の席上で偶然に隣り合わせになったのが楊さんだった。

「私の父は大連の市長です」唐突に何をこの中国人は言うのだろう、私は唖然として聞いたけれど「じゃあ一度訪問するよ」と軽く言って話題をそらした。

心の中では、何かでっかい話をしてるなぁ、程度の気持ちはしたが後々、大親友になるとは思わなかった。

彼は国費留学生で一緒に黄(こう)さんと2人で来日していた。宿舎は山口銀行の綾羅木の保養施設を寮として使っていた。

交流会の日に何か気が合い、その日のうちにとうとう自宅までつれて帰る羽目になった。

私の三人の子供達は何れも小学生で、突然現れた中国人にびっくりしていた。

「私の名前は楊です。中国の遼寧省から来ました」

「私の名前は黄と申します。中国の遼寧省から来ました」

黄さんの方が当時は日本語が上手で、楊さんの日本語は意味不明が多かったが、それでも楊さんの方が日本にとけ込むのが早かった様に感じられた。

その日は家族の紹介だけで済ましたが、後日改めて食事をしようと約束した。

内容はこの次の休みの日に我が家で日本料理を作ってパーティーをしよう。

私が日本の代表的な料理をつくるから、楊さん達も中国の料理を作ってくれないかと言うものだった。双方合意をし、折角だからこの次は日本料理でパーティーをして、その次の時に中国料理をしようと言う事になった。

当時はまだサラリーマンで女房と子供三人、私の母親と六人で生活していた。

主に私の収入で生活していて、家計に余裕はなかったけれど人との交流は欠かせないものだったし、不思議とお金に困った事はなかった。

代表的な日本料理、しかも彼らとの約束は自分で料理をつくると言うものだった。多少なりとも料理には自信があったけど、中国人が美味しいと喜んでくれるだろう料理とは「んーーーーん、何がええかなぁ」。

続く

ジャスミン茶の香り

ジャスミン茶の香り 1

「私の名前は楊(ヨウ)と言います」中国人楊黎明(ヤン、リーミン)と交わした最初の言葉だった。

1990年の11月、下関市立大学で行われた留学生との交流会を一才年下の後輩だった安食(あじき)恵子と開催した。

会の趣旨は留学生と日本人学生、一般市民との交流の機会を広げようだった。

近隣諸国からの留学生が市立大学に沢山来ているのだけど、日本人の学生との交流も市民との交流も殆どなく、同国人同士でしか交流しておらず、孤立している、どうにかして交流の場が持てないかと言う相談を安食からされた。

安食恵子は小学校、中学校の一歳年下の後輩でとても活発な子だった。

下関市の職員で、勤務は下関市立大学の図書館だった。

仕事の傍らで色々なサークル活動を学生を巻き込んで積極的にこなしていた。アジア映画祭も学生達と企画、上映会なども実行していた。

その当時の私は下関に戻ってきて水産会社の社員だった。

そんな時、安食から「ねえ、相談に乗ってくれない」と言われて、交流会の企画に参加した。

企画の内容は夫々の国の学生がお国自慢の料理を一品作って集まってもらい、お互いの国を紹介しながらお国自慢の料理を披露し、皆で食べようと言うものだった。

安食から「ねえ、私達はやはりフグ料理やろうね」「そうやね」料理がきまった。

しかし、その当時の私はフグへの知識は無かった。フグ料理の経験すらなかった。全くの素人だったのである。

企画したのが9月初旬。

「安食、どうするん」「経験者に色々聞けばええやない」「相談するか」

レッツゴーだった。

今は亡き平越商店社長の平尾光司さん、ふぐ名人の西山さん、唐戸市場、etc皆さん良く援助をして頂いた。

開催の当日、私のテーブルで隣に座ったのが楊さんだった。

「私の名前は楊(ヨウ)と言います」

私達の交流が始まった。

私がフグの仕事を始めたのにはこの様な出来事があった。

続く