ジャスミン茶の香り 終

思い出は尽きない、、

2009年3月15日 楊さんは中国吉林省長春市から遼寧省瀋陽への帰路、運転手の運転ミスによる事故で車が横転し、1人車外に投げ出され内臓破裂で即死した。享年55歳。短くも太い人生だった。

父親は楊建民氏で元遼寧省大連市の副市長、80歳を過ぎた今でも絶大な影響力を配下に持っている。1979年に北九州市と友好姉妹都市を締結し、経済界にも発言権をもっている。

楊さんは1992年4月に2年間滞在した日本を離れ帰国した。帰国後は日本の水産会社の中国駐在員なにり、その後日本のゼネコンの中国駐在員に転身した。その時の経験を活かし、2001年に大連名水温泉公司と言う会社を立ち上げた。

帰国後は父上の楊健民氏の力を一切利用せず、独立自興の精神で踏ん張り、やがて巨星へと成長して行った。

大連名水温泉公司は温泉開発を基礎に地域開発のデベロッパーをし、中国全土で事業を展開するまでに成長していた。

南は雲南省、四川省であり、西は内モンゴルであったり、北は黒竜江省と凄い勢いで中国全土を駆け巡っていた。渤海湾沿いの山東省、遼寧省には現在有名な温泉が幾つもある。2001年以降開発された温泉は全て楊さんの仕事だ。

私は四川省も雲南省へも同行し、彼の代わりに州政府の役人相手に挨拶なんかもさせられた。「いいか、望月さんは日本の金持ちと言ってあるから、だから、笑って握手をしてくれたらいいよ」と何時もの調子で楽しませてくれた。

楊さんが独立して間もない頃、お願いがあると言ってきた。何と聞くと「日本のファクシミリ器」が欲しいと言う。どうしても私に買ってくれと言う。ではと来日の折にベスト電器に買いに行ったら直ぐさま、この機械と見つけて来た。

私が代金を支払うと嬉しそうに礼を言ってくれ、とても大事そうに抱えて持って帰った。

その話しを私は忘れていた。2008年の来日時に彼の連れて来た中国のお客さんと私と数名で会食していた時、突然楊さんが大粒の涙を流し、泣き出した。どうしたのかと話しを良く聞くと、自分が一番苦労している時に望月さんにお願い事をしたら、何も言わずにファックスの機械を買ってくれた。

望月さんも苦労している時期なのにと、何時も思い出しては胸を熱くしている。今日はどうしてもこの話したいと言って、ファックスの話しをしてくれた。私は恥ずかしかったけど、「友達だから」と楊さんに言ったら「友達だから」と彼もオウム返しに言ってきた。2人で目を合わせ、同時に「友達だから」と言って泣き顔で笑った。何度も笑った。

2009年3月20日、親友の楊黎明(ヤン.リーミン)の葬儀は、3月のこの時期の大連では珍しい吹雪の中行われた。

体育館位な大きな講堂で彼の遺体がレーニンの様にガラスカバーで覆われた棺に入って飾られている。その側に私と楊さんの家族と4人で並び弔問客への挨拶をする。棺の反対側には10人の楽隊が並び管楽器で葬送曲を奏でた。

とてもとても悲しい音楽だった。参列者は千人くらい訪れてくれた。

1列になって棺の周りを回って、私達に挨拶をし立ち去って行く。悲しい儀式たった。

現在の中国には宗教がない。坊さんを呼んで読経を上げる事も宗教儀式も禁止されている。

しかし、楊さんのお通夜にはこっそり坊主を呼んで読経を上げてもらった。楊健民さんが手配をしてくれていた。

吹雪の中、長い長い葬儀が終わり、やがて火葬場に向かった。

火葬場に入って息を呑んだ。沢山のストレッチャーの上に死体が乗っていた。夫々の人達の死装束は違っていて、生前に一番似合う格好をしてもらっているようだった。

釜戸に入れる時、私は「楊さん」「楊さん」と大声で叫び、泣き崩れた。

息子の楊さんの息子のヤンヨーに抱えられて、その場を去った。

私は彼の骨を見るのは忍びなく、その日に吹雪の舞う大連を後にした。

5月15日、私は旅順の街を見下ろす小高い丘の墓地公園にいた。大親友の楊黎明の墓参の目的でその場にいた。彼の墓には生前の写真が埋め込まれていて、じっと僕を見つめていた。

死者が黄泉の国で使う模造紙幣を燃やし、長い線香を炊き、造花の花束を献花した。

あと2週間経てば大連のアカシヤ祭りだ。1992年5月20日、始めて踏んだ大連で楊さんと飲んだジャスミン茶が懐かしい。

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